鈴木大拙の教え
自己を例えればそれは一個の円相である。その円には円周がない。自己は円相の中心とも言い得るが、この中心は中央の一点であるのみならず、園内のいたるところ、どの点を取り上げても随所に中心となるのである。この中心の一点は我々の行くところ、随所にこれを移し得るもので無限に変じえるところの場である。(チト、例えが難しい(笑))
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個人は彼の文化の型と相容れない思想や感情に気づくに耐えないのでそれを抑圧せざるを得ないのである。形式的に言うと、それゆえに無意識的なものと意識的なものとは(個別の家庭環境やコスモポリタンの影響を別にして)社会の構造とその生じる感情や思想の型に依存している。(やはり、抑圧したくないなぁ(笑))
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無意識の内容については一般的に言うことは不可能である。しかし一つのことは言えるだろう。すなわちそれはいつも暗と明に対する彼のすべての可能性を持った全人を表している。(素晴らしい表現だ)
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自己の性質が絶対主体的なのだから、どんなに懸命になってその場所をいわゆる客観的に位置づけようと試みたところで、何の手かがりも得られはしない。(はい、主観でイキマス(笑))
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ただ、キュウリをポリポリ食うだけなのに、楽しくて(笑)。クマンバチは受精のとき蜜をなめ、人間は大きくなったモノをボリボリ食う。与えるキュウリさん(笑)。
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キリスト教では人格という言葉を用い始めた。たとえば”聖なる人格”、”人間的人格”といった具合であって、このふたつがキリストにおいて調和せられるというふうに用いられる。しかしこれは調和であろうか?(あはは、すごい問いかけ(笑))
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キリスト教の調和には相克といったものがつきまとう。この相克があるので不安が目に見える形でつきまとう。実際、この不安が人を追い立てる。すると人は中庸を失って熱狂的になったり暴力的になったりする。(はい、出来ないことをヤレとか言われる。汝の敵を愛せよとか)
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西洋人の人々は西洋の神の歴史的因習すなわち−”神−人、人−神”というものに執着している限り、人格の二元性から抜けですことができないのだ。(信者じゃないのでよくワカラナイけど)
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