$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 昨日、人は自分を起点にしたがると書きました。 感謝を強調する人もそうだと思います。 ありがとうを100回言うとか・・。 アドラー心理学では、すべての意識はエゴだと言い切っています。 感謝こそ無意識に任せたほうが良いと私は思っています。 意識で感謝る人は、自分が起点の世界にしたいだけなのです。 感謝という素晴らしいことをエゴに使ってはいけません。(続く)
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 この神の一言は、デカいです。 自分がそうだから他の人間や、神もそうだと考える。 たいてい、そうやって生きているのだと思います。 自分の価値観を外に拡大しただけにすぎません。 でも、そうすると運は良くなるかも知れません。 なぜなら自分と同じ波動で世界を染めてしまうのですから。 そして波動の法則で共鳴現象を起こすからです。 しかし・・・ それでよいのでしょうか?
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。 それを神の世界にまで広げてしまいました。 スピリチュアル系の人で「神や宇宙を知りたければ、自分の内面を見ろ」という人がいます。 自分の中には神がいるからだ・・と言わんばかりに。 で・・。 内面の世界を外に拡大したら、神から指摘されました。「自分の内面と同じように神や宇宙を捉えないでくれ」と。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。 それを神の世界にまで広げてしまいました。 失礼ながら言わせて下さい(毎回言っているけど(笑)) 審判をするって、チッチェエです。 ひとつの価値観に基づいて「これはダメ、あれはイイ」って・・。 学校の通信簿を思い出させます。 それを神の性質にまで発展させるなんて・・。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。 審判は学校の通信簿だと書きました。 だとすれば「学び」もおなじ部類です。 人生は学びだという人は多いですが、ひとつの価値観に基づいて「これはダメ、あれはイイ」って言っているのとおなじです。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。「学び」もおなじ部類だと書きました。 ひとつのせまい価値観で体験を斬っているからです。 体験には360度の側面があるはずです。 それを一方からしか評価しないのが「人生の学び」です。 人生は学びだと言っている限り、つまらない人生になっていくはずです。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。「学び」もおなじ部類だと書きました。 まるで小学校の通信簿の世界です。 でもあの頃は先生が採点していました。 それをそのまま神様の世界にまで広げているのです。 それだけではなく、今は自分でも採点します。 なんて採点が好きなのでしょう。 高次元だとか言って上下を付け、学びだとか言って体験に一方方向からの光だけを当てる。 そういう世界観から脱しなさいと、神様は言っているようです。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。 まるで小学校の通信簿の世界、オトナになっても人は採点したがると書きました。 採点は審判です。 上下関係をつけることです。 ひとつの体験に上下関係をつけてしまうのです。 優劣をつけて、そこから生き甲斐を見いだそうとします。 まるで競争の選手です。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。 審判をする行為はスポーツの世界では常識です。 でも学業の世界でもありました。 そしてまったくおなじことを自分の生き方にも取り入れています。 自己成長がそうです。 成長というからには、ダメな自分の概念もあります。 それは「審判」をしているからです。 神の問うとおり、人間は審判をしたがります。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。 なぜ神は審判をしていないのでしょうか? なぜ神はこれほどまでに審判を否定するのでしょうか? それは・・ 審判はエゴだからです。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。 なぜ神はこれほどまでに審判を否定するのだと言えば、審判はエゴだからと書きました。 しかし審判を肯定したきた人たちは愛のムチだと思っているはずです。 カルマを肯定する人たちも同様に思っているかも知れません。 そうだとすれば、神の愛を語る資格はないと感じます。 エゴな愛を、神の愛だと勘違いしているのですから・・。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える」 神は、人間だけが審判をしたがると書きました。 なぜ神はこれほどまでに審判を否定するのだと言えば、審判はエゴだからと書きました。 アドラー心理学では「すべての意識はエゴである」と言っています。 意識を高めるという行為はエゴを高めるのと同じです。 審判は意識によって行われます。 神はエゴを高めるような世界にはしたくないはずです。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 きょうは話をひとつ進めます。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」 神は、ここまで言い切っています。 あなたがたには受け入れられないと。 はい、それもそのはずです。 審判の概念を取り入れたのはキリストですから。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」 しかしバチカンには最後の審判が描かれています。 聖書にも次のように書かれています。「わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」(コリントへの手紙) だから審判に問いを持つ人はかなり少なかった思います。 人類の大半は審判を信じ、自分自身でも内面を高めるとか言いながら自分を自分で審判をしてきたからです。 偉大な真実への問いが無かったのです。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」 学生時代に「禅と精神分析(鈴木大拙・エーリッヒフロム著)」を読みました。その中に次のくだりがありました。「キリスト教では人格という言葉を用い始めた。たとえば”聖なる人格”、”人間的人格”といった具合であって、このふたつがキリストにおいて調和せられるというふうに用いられる。しかしこれは相克といったものがつきまとう。この相克があるので不安が目に見える形でつきまとう。実際、この不安が人を追い立てる。すると人は中庸を失って熱狂的になったり暴力的になったりする」 人が暴力的になったりするひとつの原因がキリストだというわけです。 人格という分離の概念からスタートするキリストだったので、そうだと感じます。 そもそも審判というのは、人を恐怖の中に入れます。 暴力だって助長されると思います。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」 バチカンにある最後の審判のど真ん中に、裁く人が描かれています。 イエス・キリストです。 えっ、十字架にかかったときはガリガリだったのに、いつ太ったのでしょうか。 ポテチとかステーキを食べた結果、こんなにマッチョになったのでしょうか。「お前は地獄だぁぁ」 とか言っているようです。 横にいる女性はマリアです。 少しおびえているようにも見えます。 そして私たちは、この絵の背景の思想を受け入れてきたのです。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」 学生時代に「禅と精神分析(鈴木大拙・エーリッヒフロム著)」を読みました。その中に次のくだりがありました。「個人は彼の文化の型と相容れない思想や感情に気づくに耐えないのでそれを抑圧せざるを得ないのである。形式的に言うと、それゆえに無意識的なものと意識的なものとは社会の構造とその生じる感情や思想の型に依存している」 前回は鈴木大拙の言葉でしたがきょうはエーリッヒ・フロムの言葉です。 彼はフロイトの弟子です。ちなみにもうひとりの弟子がユングです。 フロムによれば、審判という思想が社会の文化の型だと、それと相容れない思想は抑圧してしまうのです。 だから「あなたがたには受け入れられない」と言っているのです。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」 先日出した最後の審判の絵には天使が沢山います。 それを知ったとき、天使って何だろう?と思いました。 善の代表のように思われていますが・・。 スピリチュアル系の人たちは天使に対しては、まったく批判的ではないと思います。 それどころか自分の味方に付けようとしています。 でも最後の審判の場面にいるのです。 何の疑問も持ちませんか?
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」 学生時代に「禅と精神分析(鈴木大拙・エーリッヒフロム著)」を読みました。前回はフロムの言葉でしたがきょうは鈴木大拙の言葉です。「キリスト教系の人々は、歴史的因習すなわち−”神−人、人−神”というものに執着している限り、人格の二元性から抜けだすことができないのだ。この二元的な相克、それに伴う不安の感情のために、キリスト教的人間はあえて危険を冒してまで空間の中に飛び出していくのだ。知性の表面に映ずる二つのものの相克をなんとかして調和せんものと力を尽くすのである」 不安感情とは、成長しなければならないという意識です。 ダメな自分から良い自分に・・ 低次元の自分から高次元に自分に・・ だから「あなたがたには受け入れられない」と言っているのでしょう。
$ 0 0 「神との対話」の続きです。 神は言いました。「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」 先日出した最後の審判の絵には天使が沢山います。 天使は善と言われています。 天使に対して悪魔がいます。 スピリチュアル系の人は天使を味方に付けようとします。 しかし鈴木大拙の言葉を思い出して下さい。 相克関係が暴力をも生み出す・・と。 天使がいるから暴力が絶えないとも言えるかも知れません。 だから「あなたがたには受け入れられない」と言っているのでしょう。