$ 0 0 きょうはワクワクとドキドキと外応との関係を考えてみます。 ワクワクは第五段階・自己実現の欲求と関係ありそうだと書きました。 私の体験からすれば、ワクワクしているとき、外応をキャッチしにくいです。 それは自己実現、すなわち自己の内面に興味があるからだと思います。 ドキドキは第六段階・在ることでした。 私の経験からすれば、ドキドキのほうが外応をキャッチしやすいです。 ドキドキは世界全体とつながっているからだと思います。
$ 0 0 企画書の続きです。 このままで良いというのは自分を肯定することです。自分を肯定すれば周囲が見えるようになります。この状態は映画「ワンネス」に出てくる外応をキャッチできる状態です。主人公の智也は最初、周りが見えませんでした。しかし色々な経験をして変わります。周囲に対して反応するようになり、ヒロインの命を救います。自己超越の状態になったからです。 日本人が使う「お陰様」も自己超越だと思います。 この状態になると周囲の情報をキャッチして、結局儲かり、発展するようになるのです。 「和」のプレミアム上映会はこの話を沢山します。 ドキドキして聞いて下さい。 申し込んでいない人は今すぐどうぞhttp://www.wa-movie.jp/new.html
$ 0 0 「在ること」「このままで良い」「自分を肯定する」・・こんなフレーズが最近の書き込みにありました。 きょうは、森田君は森田君をどう思っているのかを書きます。 ちっともスゴイとは思っていません。 なぜなら、自分で自分の運命を切り開いている気がしないからです。 いい話は常に外からやってきます。 しかも、イヤイヤやらされる時のほうが多いです。 でも始めると、ノッてくるのです(笑)。 じゃあ、自分で計画して何かを始めたらどうなるか? きっと大したことはないと思います。森田君はそれほどの実力者ではないからです。 自分で点数をつけるなら、森田君は20点くらいです。 上には上が沢山います。 でも20点でもいいんです。 森田君は、森田君を生きているだけですから・・。
$ 0 0 森田君に点数をつけるとすれば20点だと書きました。 それを伸ばそうという気もありません。 森田君は欠点だらけの人間ですが、それをも認めてしまっているからです。 さらに森田君には第五のステップである自己実現の欲求がありません。 人生は余生だとか暇つぶしだとか言っています。 ところで、俺は95点だとか言って、自己実現バリバリな人に360度開いた面白い情報が集まるでしょうか? 情報は集まるかも知れませんが自己実現に即したものだけではないかと思います。さらに夢が実現したとしても、おかげさまで・・と言うでしょうか。 森田君の場合は、残りの80点は周囲にあげたいです。 お蔭様で、周囲が森田君の人生を豊かにしてくれているからです。
$ 0 0 昨日、森田君は20点で満足していると書きました。 はい、森田君の辞書には自己成長という単語はありません。 自己実現という単語もありません。 なぜなら、自分が世界を創り出しているとは思っていないからです。 むしろ逆です。 世界が自分を創り出しているのです。
$ 0 0 昨日は、世界が自分を創り出していると書きました。 でも多くの人はそう思っていないと思います。 自分が世界を創り出していると思っています。 しかし森田君から言わせれば、それは西洋風の考えだと思います。 和の精神は、受け身が基本だと思います。 それは世界平和をもたらすと思っています。
$ 0 0 江戸時代、士農工商という身分が決まっていて、人々は受け身で暮らしていました。 今よりも不満は少なかったと思います 黒船がやってきて外人の持ってきた文献から、フリーダムという英単語を福沢諭吉が自由と訳しました。 日本に初めて「自由」が輸入された瞬間でした。 250年間も平和が続いたのに、続けざまに戦争をするようになります。 日本の「主体」を守るという大義名分でした。 日本は受け身から能動に変わったのです。 スピリチュアルな本も多くが西洋思想です。 日本人の良さをもう一度見直そうとういうのが映画「和」です。
$ 0 0 福沢諭吉がFREEDOMを自由と訳したことは、昨日書きました。 自由とは、自分に理由があることだそうです。 それまでは生まれた環境に理由がありました。身分制度が決まっていたからです。 しかし今は違います。農民に生まれても商人にもなれるし、政治家にもなれます。 西洋人が書いた「原因と結果の法則」は大ヒットしましたが、やはり原因は自分です。 世界は自分が創り出しているとまでいう人も出てきました。 自分の意識が世界をコントロールできるという意味でもあります。 しかし「和」の公式ホームページにはこう書いてあります。「意識は無意識の支配下なのか?」 もしそうだとすれば話は違ってきます。 意識が主体になれません。 これは脳科学者の間でも実験的に証明されつつあります。「自由は幻想にすぎない」という脳科学者もいます。 しかし日本人は元々そういう思想を持っていたはずです。 日本人は、自分が…自分が…と主体が前面に出るのは好きではありませんでした。 あいまいな表現を使うのも日本人の特徴でした。 西洋の本には「自分の好きなことをしなさい」と書いてあります。自由が前面に出た思想です。 でもそういう生き方にどこか付いていけないのも日本人でした。
$ 0 0 数日前にワクワクとかドキドキについて書きました。 しかし僕は今、平凡な日常を淡々と生きています。 今までの半生をかえりみても、淡々と過ごしたことのほうが圧倒的に多いです。 そうなると…ですよ、「淡々と過ごす生き方」というのも良いかも知れないと思いました。 っていうか、日本人的生き方かも知れません。 日本人は神社に行って家内安全を願うことが多いです。 一家に事故や病気がないことを願うのです。 そこには「淡々」も含まれるような気がします。 西欧人はキリスト教が多いので人生は一回だけと信じています。だとすれば淡々じゃあイヤかも知れません。 しかし日本人には輪廻の思想があります。 淡々でなければちょっとやっていけません(笑)
$ 0 0 (本日発行するメルマガです)桜はなぜ日本的なのでしょうか?一斉に咲いてパッと散る潔さだと言われていますが、実はそれだけではありません。お蔭様的なのです。桜と言えばソメイヨシノですが、この花は江戸時代に品種改良されて作られました。ご存知のようにサクランボはできません。つまり自分自身で繁殖する力はないんです。人間が接ぎ木して、増やすのです。梅や桃は種子で自己増殖できますが、桜は違うのです。美しく咲いているので、それを見た人が増殖したくなるのです。人間が地球からいなくなれば、当然、桜も消えます。お互いに、お蔭様の世界でなりたっているのです。しかし、自己増殖できないのに、桜は圧倒的地位を獲得しています。ここに生き方のヒントがあります。自己増殖ばかり考えて、自分の楽しみを追求するよりも、他の人を楽しませたほうが増殖できるのです。与えることは、結果として、多くをもらうことになります。その配分をしているのは、実は神様です。このお陰様的システムを映画「和」のプレミアム上映会でお話しします。http://www.moritaken.com/index.html
$ 0 0 昨日の続きです。 桜は自己増殖できないと書きました。 日本人が接ぎ木で増やしてきたのです。 これはダーウィンの進化論でどう説明するのでしょうか? 桜はそれ自身で自然淘汰してきたわけではないからです。 桜にとって日本人は神だと思います。 桜の増殖は日本人にゆだねられているからです。 こんな視点で花見をするのも楽しいと思います(笑) リボンと花見に行ってきました。
$ 0 0 昨日の続きです。 桜は自己増殖できないと書きました。 日本人が接ぎ木で増やしてきたのです。 桜にとってみれば他力です。 他力といえば法然・親鸞の「他力本願」です。 戦国時代、ある武将が敵に捕まりました。 そこに法然だか親鸞だかが立ち寄ります。 捕えられた武将は言いました。「私は戦争で敵を沢山殺しました。やはり地獄に落ちるのでしょうか?」「南無阿弥陀仏と言いなさい。それですべてが救われます」「えっ、あなたの宗教を信じていなくてもいいのですか? しかもたった一回でいいのですか?」「はい、信じていなくても良いです。たった一回言うだけであなたは救われます。信じるとか、何度も唱えるとかは自力です。仏様は他力本願です」 日本にいちばん普及したのがこの浄土宗と浄土真宗です。 信じる必要もないので毎週日曜に教会に行ったりする必要もありません。 たった一回言えば、カルマも残りません。 これも日本人の良さのひとつだと思います。 きょうの写真はリボンだけです。 メインサブ1に出した写真です。
$ 0 0 ソメイヨシノは他力でした。 他力な移動体があります。それはグライダーです。 風まかせだから不自由だと思うかも知れません。 ところが映画「和」を見れば考えが一変するはずです。 というか、生き方が影響を受けるはずです。 エネルギーを高め、意識というハンドルをいっぱいに握りしめてきた生き方が・・です。 操縦するのは大学の恩師です。 前にも言いましたがこの恩師の家は浄土宗なのに、村人のために庭にキリスト教の教会を建ててしまった人です。 意識によるこだわりと言うものがありません。 アンテナの権威なのに、電波はなぜ飛ぶかワカラナイと言っています。 富士山を自由自在に飛ぶラストシーンは、きっとあなたの生き方を変えるはずです。
$ 0 0 FREEDOMを福沢諭吉が自由と訳したことは書きました。 諭吉にはもうひとつの候補があったと言われています。 それは、天下御免です。 辞書には「だれにもはばかることなく,堂々と,それをしてよいこと。公認されていること」とあります。 自由という単語が持つイメージとはだいぶ違います。 福沢諭吉がFREEDOMを天下御免と訳したなら、三度の戦争が起きなかったかも知れません。 なぜなら天下御免には、周囲を気にするニュワンスが感じられるからです。 それとは違い、自由には自分が源(みなもと)という考えがあり、自分が世界の中心であるかのようです。これは本来、日本人が持っていた気質ではないと思います。 自由が輸入された時から日本は変わり始めたと思います。 戦争に向かって・・。
$ 0 0 LOVEという単語も何に訳すかが問題でした。 二葉亭四迷をはじめとする明治の文学者たちが「愛」と翻訳しました。 日本にLOVEという概念はなかったのです。 縁を大事にし、助け合って生きていた江戸時代の日本人にとって、当たり前のことだったからでしょう。 イエスキリストは「汝の隣人を愛せよ」と言いましたが、江戸時代の人たちは言われなくてもやってきたことだと思います。 単語が存在しないというのは素晴らしいことでもあります。 意識の世界に出さなくても、当然のこととして内在されてきたからです。
$ 0 0 愛と自由は明治になって外国から輸入されたと書きました。 日本人にはもともと内在されていた可能性があると書きました。 では西洋では、なぜ元々二つの単語が存在したのでしょう。 イエスキリストは「汝の隣人を愛せよ」と言いましたが、これは民衆に対して愛を要求しているとも言えます。 自由もそうだと思いました。 ニューヨークにある自由の女神は、自由を勝ち取ったフランス革命がモチーフだと言われています。つまり西洋人は要求して、その結果、自由を得たのです。自由を得るために多くの血が流されています。でも日本は違うような気がします。 江戸時代は士農工商があって自由は少なかったはずですが、そこに不自由を感じなかったのではないかと思います。 写真は「『民衆を導く自由の女神』(1830年、ウジェーヌ・ドラクロワ画)」です。
$ 0 0 (きょう出すメルマガです)私は「自分を信じる」という言葉が好きです。自分の何を信じるのでしょうか?意識ではありません。無意識を信じるのです。意識は無意識よりも0.5秒遅れています。意識を信じると、瞬発的な行動がとれません。無意識は全宇宙に広がっています。意識がピンポイントなのに対して、無意識は360度開いています。そのため、全宇宙から情報をゲットすることができるのです。目標を決めてそれにまい進してきたあなたは、無意識を置き去りにしてきたはずです。運命が開けないのは意識の持ち方が足りないと思ってきたのではないでしょうか。「和」のプレミアム上映会は、そんなあなたに大きな問題提起をします。まだ席はあります。http://www.wa-movie.jp/new.html
$ 0 0 きょうからしばらく軽い話題です。 近畿大学の入学式は、つんく♂がプロデュースしたそうです。 学長曰く「近畿大学は第一志望で入る人は少ない。そんな学生たちに近大に来て良かったと思ってもらいたい」 学長は近大の誇りのようなものを語っていません。 二番手以下を認識した発言です。 僕はこれに感動して、涙も出たほどです。 世間も学長の考えに同調したのか、今年の受験者数は近大が日本一でした。 私立大の受験料は15000円くらいするので、大学にとっては大きな収入源です。 そして、つんく♂をプロデューサ−に雇いました。 これもすごいです。 (続く)
$ 0 0 近畿大学の入学式は、つんく♂がプロデュースしたことは書きました。 つんく♂のプロデュース費用だってバカにならないと思います。 でも近大はやったのです。 箱根駅伝等を宣伝に使おうとしてスポーツ入学させる大学が増えました。 しかし駅伝はマジです。硬派です。 それに対して、つんく♂は軟派です。 ところで東大を除くほとんどの大学は第二志望以下で入る人が多いはずです。 しかしその認識はないかも知れません。 近大はそれを認識し、肯定するかたちで打って出ました。 うまく言えませんが、僕はとても感動したのです。 (続く)
$ 0 0 第一志望に入りたいという人は多いです(ほとんどでしょう) そして東大に入ったとします。 大学生でいるうちは良いかも知れませんが、社会に出ると違うはずです。 滑り止めの大学を出た人から追い抜かれる場面もあるはずです。 だから東大卒の生き方というのは大変だと推察します。 世の中に出るとナンバーツー以下で成り立っていると思います。 ということはナンバーツー以下をどう生きるか…が、とても重要だと思います。(続く)