鈴木大拙の教え21
師は我々の日常経験のなんでもない事実をただちに指摘して、”これはみな人々が不生を持っているためでござる。いかなる悟りもこれで、整いまする”と言う。この師の言うところを表面的に見れば、我々の感覚の領域と高次のものが、別になんら変わりないということを説いているように見える。(低次のものが高次だった(笑))
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ある意味、何の変わりも無いと言っても良い。しかし別の面から見ると、これは誤りなのである。不生とは、あらゆるもの、全存在の根源なのである。(言えているかも・・で今回から番号、外します(笑))
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それは我々の日常に経験する感覚的領域を含むものはもちろんであるが、さらにそんなところに止まらず、それは過去、現在、未来のありとあらゆる実在のすべてであり、大地や空に満ちて余すところの無い不生なのである。(「今」だけでは無いのだ・・)
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我々の日常の心、日常の経験、本能的な行為といったものは、ただそれだけではなんら特別な意識もなければ価値もないようである。この何でもないただの平常心、ありふれたひとが一旦不生に触れ合うとき、そこに大きな価値が生まれ意義が生じるのだ。(何でも無いことに価値があるって・・)
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この不生が私の言うところの宇宙的無意識(コスミック・アンコンシャス)である。不生というのは実はいっさいの創造的可能性の源泉なのである。ここに至れば、私が飯を食うていても、もはや食うている者は私ではなくて不生が飯を食うている。(メシは宇宙的無意識が食っているのだ(笑))
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第一に多くの経験はそれ自身気づかれて知覚されるようには容易にならないということを考えねばなるまい。苦痛は最も意識されやすい身体感覚であろう。(あー、だから苦痛に焦点が当たるのかも)
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若い葉っぱを虫が食う・・。どうすりゃいいんだ〜と考えた末、ネットを上からガバッ。他の畑ではアーチみたいな支柱に乗せているけど、こっちはバケツがあるので、スペースができる(笑)
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もしもっと微妙な複雑な経験、たとえば朝早く空気がまだ冷たい時に、バラの蕾を見たり、その上の露の一滴を見たり、太陽が上がり、鳥がさえずるというようなことをみるような経験になると−それはある文化においては(たとえば日本においては)容易に気づかれやすい経験であるが、現代の西洋の文化においてはこの同じ経験は特に注目すべきほど”重要”でもなく、また”特別の出来事”でもないということで気づかれることは通常ないの...
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ご存じの通り、無意識が本能的なものである限りは、動物の領域を出ない。つまり一人前の人間のものとは言えない。一人前のおとなの無意識とは、我々が赤児の時から身につけてきた意識的経験のすべてを変じて、我々の全存在を構成するものとなすのである。(すべての経験が無意識に・・)
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またこういう風に言えるかも知れない。無意識が感覚の領域につながっているということは、これは生命そのものが進化してきた限りない宇宙的な歴史の過程のもたらした一つの結果なのである。それは人間のみならず、赤子にも動物にも共通のものである。(無意識の進化か。。)
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しかし人間が進化し、成長して知性が発達してくるにしたがって、人間の感覚領域は知性に侵略されてきて次第に感覚経験の純粋性が失われてきたのである。(言えてそう・・)
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微妙な感情的経験が気づかれるかどうということは、そのような経験がある文化の中に養われてきた程度によるものである。(おおお、僕も西洋に生まれていると、こうなっていない(笑))
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感情的経験の中には、ある言語がそれに対する言葉を持たないけれど、他の言語はこれらの感情を表す言葉がたくさんあるということも珍しくない。(はい、日本語は豊かです)
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