一昨日の書き込みに対するレスからの気づきを書きます。
イエスキリストと遠藤周作の「沈黙」を例に出しましたが、クリスチャンの場合、サインは主観的だと思います。
誰もが同じように感じることができないと思うからです。
神を信じているか、信じようとしている人にしか感じられないものです。
しかし映画「ワンネス」や「和」で取り扱っているサイン(外応)は客観的です。
周りにいる人が同時に体験することができます。
イエスキリストや釈迦のような人が布教する必要もありません。
悟る必要もありません。
高次な意識を持つ必要もありません。
客観の世界ですからルールを知るだけです。