夜の部の森田監督のトークはさらになにかすごかったです、そして殺傷罪に関しての話なんですが、ナイフを持って0.5秒の間より短くそのナイフをやっぱりよくないことだと思いなおして置くことは不可能だと完敗の気持ちになりました。意識は無意識の配下であれば、意識は結果でしかないので、無意識を越えることはできないし、できたらそれは神より上に行ってしまって神への冒涜だと思いました。あれから毎日、殺傷罪について考えているのですが、問いつづけているのですが、ナイフを持ってから置くことは不可能であるという負けを認めたうえで、頭に浮かんだのは、生まれ変わりの村で記憶を保持して生まれ変わった人が自殺をしようと思ったとき、死んでも死なないことを思い出して、自殺をとどまったという事例があったと思いました。また、ヤクの売人であって銃殺された今快活なおばあさんになっている方が、もう悪いことはしたくないとそれはみんな覚えているから、など前世の記憶というものがなんらかの外側からの情報となり、その人の行動を変えているような印象を受けています。だから、ナイフを持ってしまってから置くということは不可能であっても、ナイフ自体を持たないということはできるのではないかと感じています、それは前世記憶という情報である気がしています。人が不老不死になったとき、人を殺そうとか自分を自分で自殺しようとか思えなくなるんじゃないかと私は考えています、それは殺すとか自殺というのは今をリセットしたいことなんじゃないかと想像ですが、考えています。そしてもうひとつの突破口として、運命の情報の記憶の仕方がアナログではなくて、デジタルなんじゃないかという仮説です。デジタルであれば、針で指を指してちょっと出血したのと、ナイフで腹をさされて大流血したのと神から見たら全部同じなんじゃないかと思いました。1円拾おうが1億円拾おうが、神からみたらデジタル的に金運がありましたという同じ出来事であるように考えています。もちろん、玉にあたって死ぬ運命の人が存在できなくなるということや、六爻占術で投獄や裁判が占えてしまうということは、運命としてはずせない項目であるということも感じられます。でも占いというものは生きていて、その時代その時代で変化していることに対応しているということも感じられます、それは株の銘柄が占えたり、パソコンがどうして壊れたかとか占えたりすることで、人間の時代の変化とともに占いが対応している感じがしています。私はなにかの突破口は、問い続けみんながその真実を受け入れ負け感覚を持ちながらもそれでも問い続けることが必要であると感じました。森田監督は神は手強いと言っていました、私たちは神を越えることはできないと感じています。しかし、結果でしかない私たちであっても負けている私たちであっても、何かできるとしたらひとりでも多くの人のところにこの映画「スープ」映画「ワンネス」映画「和」の情報を広めることその突破口はどこか模索し続け、反対勢力や対立をもおそれない全方位から受けますという開放しかないと感じました。保身ではなくて、神を越えるのではなくて、神のシステムの中にいながら神のシステムの解明しかないと感じています、そしてそれを受け入れて伝えることの可能性があるのは、民間であると感じています
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