「神との対話」の続きです。
神は言いました。
「あなたがたは自分が審判をしたがるから、わたしもそうにちがいないと考える。だが、私はそうではない−これは偉大な真実だが、あなたがたには受け入れられない」
学生時代に「禅と精神分析(鈴木大拙・エーリッヒフロム著)」を読みました。その中に次のくだりがありました。
「キリスト教では人格という言葉を用い始めた。たとえば”聖なる人格”、”人間的人格”といった具合であって、このふたつがキリストにおいて調和せられるというふうに用いられる。しかしこれは相克といったものがつきまとう。この相克があるので不安が目に見える形でつきまとう。実際、この不安が人を追い立てる。すると人は中庸を失って熱狂的になったり暴力的になったりする」
人が暴力的になったりするひとつの原因がキリストだというわけです。
人格という分離の概念からスタートするキリストだったので、そうだと感じます。
そもそも審判というのは、人を恐怖の中に入れます。
暴力だって助長されると思います。